【記憶の波間】
この日を境に、山背がすべての記憶を取り戻したかというと、そういうわけではなかったが、折に触れ、自身の中から奇妙な感覚が甦っては消えるを繰り返していた。
魂というものがどのようなものであるかはわからない。だが、自分自身の中に、間違いなく今までとは別の感覚が生まれている。過去に行ったことなどない場所の風景、まるで見たことのない造形をしたまばゆい建物、見知らぬ花々、そして、誰かはわからぬがとても大切なひと。ずっとそばにいなければいけなかったような、ずっと自分を待っていてくれているような、なんとも懐かしく愛おしさを感じるひとが浮かんでくる。
「私は、ここに何をしに来たのだったか…」このところ、ふいにそんな思いが浮かび、つい口にでてしまう。
山背には、異母妹である舂米という妻が一人いる。この時代、側室を持つ男性は多かったが、山背は一人の女性のみを妻としていた。子煩悩でもある彼は、幼き子らとの時間も大切にして過ごしていたが、このところ、どこかうわの空になっている山背を目にすることが増え、舂米は気にかかっていた。
「お具合がよろしくありませんの?」舂米は、山背に問うた。
「あ、いや。そういうわけではないのだ。ちょっと考えごとをしていて…。」
「何かご心配事でも?」
「そういうわけではないのだよ。すまぬ、心配をかけてしまっていたのだね。
なんというのか…私がこの世でせねばならぬ本当のことは何なのか、そんなことを思いめぐらしていたのだ。」
「まあ。驚きましたわ。あなたは、これからの世を背負っていく方ではございませぬか。
私たちの父上の跡を継げるのは、あなた様しかおられません。父上は、このところめっきり夢殿から出てはいらっしゃらないご様子ですし、上宮王家の柱は、今は、あなた様でいらっしゃいますのに。次代の大王は、あなただと仰る方々もいらっしゃるようですのよ。」
「まさか。やめてくれ。私はそのような器ではないよ。それに…」
「それに?」
「ああ、なんでもない。ただ、私にはやるべきことが残っているように思えてならないのだ・・・。ああ、そうだ、もう一度、父上に会いに伺ってこよう。」
舂米は、少しいぶかしんだ表情で、山背の顔を覗き込んだ。
山背は、ただ、優しく微笑みかけただけで、何も話さなかった。
数日後、山背は、再び、父の住まう邸へと向かった。
「父上は、また夢殿ですか?」
それに答えたのは、父の寵愛を受けているといわれ、舂米の実の母である膳部美郎女(かしわでのみのいらつめ)であった。
「はい。この頃は、夢殿に入られましたら10日近くは出て参られませぬ。誰も声をかけることはできませんの。」
「さようですか。実は、先日、父に促され、夢殿に入らせていただきました。その中で、少し、不思議なことが起こりまして…。今一度、父上と話をさせていただきたいと、馳せ参じた次第です。」
山背にとっては義母にあたる膳部美郎女は、何かを考えている風な態度で、少し間をおいて返答した。
「そうなのですね。私は、夢殿に入ることは許されておりませんし、近付くこともしてはおりませんの。あの場は、特別な聖域のように思っていらっしゃるようですので。
山背様なら、きっと問題なく迎えて入れてくださいますでしょうから、このまま向かわれてはいかがでしょう。怒られることなど決してありはしませんから。」
背中を押してもらったような格好で、山背は、夢殿へと向かった。
様々なことが思い巡らされ、頭の中がぐるぐる回っているような感覚に陥りながら、ひたすらに父に助けを求める幼子のような心持ちで、山背はいつしか小走りになっていた。
少しの畏怖と、胸が弾けてしまいそうな喜びを感じている自分に、少しおかしくなりながら、先を急いだ。「そうか、私はこんなにも父上を求めていたのだ。答えはきっとここにある。」目の前が開けたような気分になったところで、夢殿の前に着いていた自分に気付いた。
山背は、しっかりと閉まっている扉の前に立ち、父を呼んだ。
「父上、山背でございます。どうか、この扉を開けてください。私に、もう一度、機会を与えてください。あの日から私は、どうにかなってしまったようなのです。
私は、本当は何をすべきなのか、何のためにここにいるのか、あと少しでわかりそうなのに、掴みかけた瞬間、大波がやってきて、私に覆いかぶさってくるのです。思い出したい。思い出さねばならぬ。私の心の奥で、もう一人の私の声が響いてくるように感じるのです。お願いです、父上。ここを、どうかこの扉を開けて、私を中に入れてください。」
山背は懇願した。